2014年6月27日金曜日

浮羽郡案内

 浮羽郡案内は、大正天皇が即位された記念に、浮羽郡役所が出版(大正四年)したものを昭和五十年に復刻されたもので、浮羽郡の歴史や当時の産業などが書かれています。定価は6500円です。当時としては、破格の値段が付いているように思います。この本を買って来た父は、一読すると「お前なら大事にするだろう…」と言って、まだ学生だった私に、本を渡しました。
 実を言うと、浮羽郡吉井町(現在のうきは市)は、我が家のルーツの地で、大事に保管して勉強するようにという意味だったのかもしれません。しかし、百年ほど前に、地方とは言え役所が出版した本ですから、漢文調で書かれ、私の国語力では読みこなすことはなかなか出来ませんでした。ただ、幼い時から父や祖母に聞かされていた、五人庄屋の物語が書いてある事だけは分かっていましたが、書棚の御飾として保管していました。最近、ふと五人庄屋の事を調べたくなり、何十年振りかに、この本を開くことにしました。
 現代の人は、五人庄屋の物語を知らない人も多いと思いますが、戦前は修身の教科書にも掲載されていたほど有名は物語です。江戸時代の初期、久留米藩の生葉郡(現在のうきは市)に住む五人の庄屋が、暴れ川で有名な筑紫次郎(筑後川)から水を引くために、命を掛けて灌漑用水路(大石長野水道)を建設する話です。当時の久留米藩の土木技術の水準の高さも見逃せませんが、磔柱を前にして作業をする百姓達の「庄屋様を死なしてなるものか…」と言う、心意気も伝わって来ます。彼らは死後、神として祀られ、明治の世に、従五位を追贈されています。
 そう言う訳で、浮羽郡案内から五人庄屋に関係のある部分を一部抜粋しておきます。何分にも百年前に出版された本ですから、ワードでは出せない漢字は、当用漢字などに一部変えていますが、文章はそのまま写しています。(私の技術が未熟なので、漢字を出すことが出来ないのかも知れません。また、ルビが間違っていたら申し訳ありません。)


利水灌漑

 本郡に於ける水利灌漑は、大莊屋田代氏及び五莊屋諸氏の偉業によって、川邊一帯の地域は水路意の如く肥沃の美田相連なり、(すこし)も早魃の憂いを見ぬのである。現今大石水道の灌漑せる総反別は實に二千二百二十八町三反歩餘に達している、今之を各町村別に示せば大石村二十一町歩餘、吉井町八十九町歩餘、千年村二百二十九町四反歩餘、江南村三百三十八町に反歩餘、船越村三百五十一町七反歩餘、水分村二百四十二町五歩餘、川會村三百四十八町五反歩餘、田主丸町百十三町二反歩餘、柴刈村二百九十九町八反歩餘及び朝倉郡朝倉村十八町七反歩餘、同郡大福村四十四町一反歩餘、三井郡大橋村百三十一町八反歩餘である。なほ年を追って灌漑()(かく)(ちょう)せられつつあるが、水路の最も大なるは南北二本線及び惠利、觀音、雲雀の三大溝で、此等數派の水路は何れも支流に支流を生じて千派萬派となり、到る處の田圃に灌漑し、其延長幾千萬間なるを知らぬのである。
 溝路本線……大石水道より千歳村角間天秤に至る
 南 本線……角間天秤より水分村常盤字吉田に至る
 北 本線……同處より船越村字廣島に至る
 惠利 溝……水分村大字常盤印若より川會村大字志塚島字和田川に至る
 觀音 溝……同處より同村字豊城五反畠に至る
 雲雀 溝……同處より柴刈村菅原字中久保に至る

 溝路本線1,871間…南本線4,973間…惠利溝3,021
         北本線4,363間 観音溝1,709間}
                                                    雲雀溝4,118間}…蜷川溝2,392


大石、長野堰渠(せききょ)

 我が浮羽郡の北部は、筑後川の流れに沿へる廣濶(こうかつ)な平野でありながら、灌漑水利の便に乏しくして、五穀能く登らず、租税さへ免除同様な計らひを受け、一見荒廢した寒村を形つて居たのである。今を(へだた)る二百五十餘年前の寛文三年は、我邦一般に大旱魃(かんばつ)で、郡民は飢餓に(せま)り、東西に離散しようとするの慘状を呈した、此時!江南村元夏梅村莊屋栗林次兵衛、淸宗村莊屋本松平右衛門、高田村莊屋山下助左衛門、今竹村莊屋重富平左衛門、菅原村莊屋猪山作之亟の五人は、郡内庶民の困憊其極に達して、まさに餓死せんばかりの状に在るを見て、義氣仁心は泉の如く湧き、死を期して大石、長野堰渠開鑿(かいさく)の大計を企てたのである。けれども此事たるや非常の大工事で、業若し成らざれば一身を棒ぐるの外道はないのである、脈々たる血潮は全身に亢奮し、五莊屋は遂に誓詞を作って血判し「素志を貫徹するまでは生死(かわ)るまじ」と堅く相約して、郡奉行高村權内(ごんない)に其決意を(つぶ)さにしたので、此の熱血は(たん)(りゃく)あり氣慨(きがい)ある高村奉行の胸に温かく納まった(しか)るにこの計画を聞いた金本、稲崎、富光、安枝、島、竹重七箇村の莊屋は相(たずさ)へて連判に加はらんことを申し込んだが、擧はもとより名利を離れた決死的空前の大事業であるから、五莊屋は秋霜(しゅうそう)烈日(れつじつ)の如き一語を以て之を謝絶して曰く「此大事を()すには一命をも()つる覚悟なれば、決して他人を累はすべきに非ず」と、(ここ)()て七箇村の莊屋は水路開鑿に(つき)て敵意を(はさ)み、反對(はんたい)(こえ)()げて事業の進歩を阻碍(そがい)せんとしたのである。大莊屋田代彌三左衛門は同職の大莊屋石井六三郎とともに其間に立ち、辛ふじて(そう)(ほう)の意志を疏通(そつう)せしめ得たので、千代久村莊屋も之に加わって同盟十三箇村の莊屋派願書に連署し、設計圖面(ずめん)を添へ、高村權内の手を経て藩府に出願したのは、實に寛文三年秋のことであった。
 斯くて大石、長野堰(きょ)(さく)の願書は藩府に提出せられたのであるが、筑後川に水門を設けて、數里に亘る水道を鑿つと云ふ大膽(だいたん)な事業は、到底百姓等の手にて成就し得らるべきにあらずとして、藩府もさすがに驚かざるを得なかった、而かも熱烈火の如き數度の請願書に接するので、藩府も默過しがたく、前後數回五莊屋を召喚して設計に就き質問を試み、其合理的な説明に首肯(しゅこう)せらるべきものあるに(こだわ)らずなほ遅疑(ちぎ)して許可を(あた)ふるの運びに至らなかったのである。時に橘田(たちばた)(むら)外十一箇村より「大石より長野を通じて水道を開鑿せば、洪水の際は餘水汎濫(はんらん)するも、他に排水の途なく、沿線の地は水底に沈沒するであらう」との反論が起った、かくて藩府は一層遲疑逡巡して、あはれ五莊屋が死を賭せる企画も、玆に至って幾んど水泡に歸せんとしたのである。
 五莊屋の意氣に温かき同情をつつめる郡奉行高村權内は、このさまを見て自ら原口村に出張し、願主たる十三箇村の莊屋及反對の莊屋を召喚して對審せしめ、先づ反對派に向ひて()(しょく)(はげ)まし「五莊屋出願の如く水路を開鑿(かいさく)するとも、洪水の際水底となるが如き(うれい)無かるべしと思ふが如何」と斷乎たる一言に(みの)れも頭を垂れ、口を(かん)するのみであった、權内は更らに十三箇村の莊屋に向ひ「水道開鑿の後若し水()らざるが如き事あらば如何にするか」との問いを發した「溝筋並に新溝の儀は私共見積りの通り御仕立相成、水通り申さざるに(おい)ては、諸人の見せしめに如何ようの處刑(しょけい)を受くるも、恨む(ところ)なし、昨今の(まま)にて一年を經過せば、郡民枯死すべし、死を惜しむ時に非ず、願書の通り全部許可ありたし」とは五莊屋の肺腑を(しぼ)れる答申であった、この熾烈(しれつ)な犠牲的精神は、光焰(こうえん)實にの如きものがあつて、遂に反對の論議も閉塞することを得、權内は五莊屋の至誠(しせい)、天日を貫くものあるに感激して、予も亦死(またし)(とつ)して盡力(じんりょく)せんとて、遂に藩府を動かすに至り、寛文三年十二月(ようや)く許可に接し、
  請願の趣は格別の詮議(せんぎ)により許可するが、水來らざれば長野の工事()に於いて磔殺(たくさつ)の刑に(しょ)すべし、と申し渡されたのであった、五莊屋は雀躍(じゃくやく)して相喜び、翌寛文四年正月、(ここ)に初めて大石、長野溝渠の工事に着手する運びに至ったのである。
  工事監督として丹波頼母重次派遣された、重次は郡奉行高村權内、国友彦太夫、下奉行青沼市左衛門、足立小兵衛、穴生權左衛門、同六太夫以下鐡砲衆三十餘名を引き連れ、大石村に逗留して之が監督の任に當った、五莊屋は(ちゅう)()工事塲に詰切って、人夫は舊生葉、竹野、山本の三郡より繰り出し、願筋の村々からは更に人夫を出し、入用の銀品は関係十三箇村の莊屋で處辨(しょべん)して居た。高村郡奉行は約束の通り、五人分の磔具を長野の工事塲に立て並べ、以て衆を(はげ)ました、工はこれ命を的にする五莊屋の事業である、老幼争って之に加はり莊屋様を殺して済むものかと、互いに相勵まし、偉人の赤心は多數の工夫に共鳴して、意想外に工事は進捗(しんちょく)し、三月中旬には全く落成したのである、(ここ)に於いて一令の下るを待ち水門の砂土を決潰(けつかい)したるに、()(てい)の通り用水滾々(こんこん)として流れつた。歡呼の聲は湧くが如く河のほとりを漂ひ、(たちま)ち火を放つて磔具を焼き、()(えん)微かに野の上を棚引いたのであった。
  私念を忘れた五莊屋は、自己即ち事業となつて立派な士道の精彩を放つた、今其工事の状況を述べんに、筑後川の南岸大石村に於いて一大水門を造り、閉鎖を自由にし、長野村に至る二十七町三十餘間の大溝渠を掘り、長野にて隈上川に堰を設けて筑後川に注ぐ水を堰き、同じく一大水門を造り、水道の水と隈の上川の水流とを併せて、更に溝渠を通ずること十町餘、千年村角間に至って數派に分かれ、(しか)して各村に流れを(わか)つたのである。かくて生葉郡に七十餘町歩、竹野郡に五町六()歩の新田が開拓せられた。
 一たび本工事の成功を見るや、各村よりは餘水の分流を望むで止まざるので、寛文五年正月藩府の許可を得て、擴張工事に着手し、工事監督丹羽頼母重次は、郡奉行高村權内、國友彦太夫以下奉行小頭八名、鐡砲衆三十餘名を引率し來つて大石村に逗留した、竹野郡九ヶ村の莊屋は勿論、生葉郡の莊屋も残らず召集し、人夫は前回通り一日の出方五百人宛を三郡より徴發(ちょうはつ)することとして、五莊屋の内清宗村の平右衛門と、菅村の作之丞とは大石村に、夏梅村の次兵衛と高田村の助左衛門とは長野村に詰め切り、莊屋人夫取締の任に當つて居た。此の工事は大石村に水門一口を增して二口となし、両側に石を積み(かさ)ねて絶壁の如く(さく)(りつ)させ、之を巨大な板石で(ふた)ひ、一口分の穴の長さを八尺、廣さを七尺、高さを八尺としたので、水量は數倍となったが、諸莊屋は(なお)(もっ)て足らずと(ため)し、更に破天荒の一大工事を設計したのである。即ち大石村に沿へる筑後川の水流を堰き止め、其流れを(みなぎ)らして水門に導かんとするのである、諸莊屋は苦心慘憺(くしんさんたん)の結果、下流一二町の處より大巖巨石を漸次(ぜんじ)積みあげ、水門と並行せしめ、(わず)かに(ふね)(いかだ)の通ずるだけを餘し、淊々(かんかん)たる筑水の大河を堰き止めたので、水流奔激(ほんげき)して二口の水門より流出することとなつた、長野に於いても隈の上川の石堰を增築し、堅固なる水門二口を設くること大石と同様にし、穴の長さを三丈五尺、廣さを八尺四寸、高さを五尺として居る。長野水門を出でたる水は前にも述ぶる如く千年村角間に至り、此所にて先づ二大派に分たれている、この両線分流の塲處を角間天秤と(しょう)して居る。かくて大石、長野の堰渠は全部竣工し、爾來(じらい)寛文十二年に及ぶまで九年の間に(きゅう)生葉、竹野、山本三郡を通じて古田、新田の潤ふもの實に一千數百町歩を(かぞえ)ふるに至った。
 其後九十餘年、宝暦八年に洪水の爲め、不幸大石水道は破壊したので、修築工事に着手し、従來の長さ八間餘の水門は更に之を十三間餘に延長した、爾來堅牢(けんろう)なる水門は百六十餘年の星霜(せいそう)を経て今日に及んで居る。青田に浮かぶ笠の影にも、五莊屋の義魄(ぎはく)と精華が(いろど)られ、幾千載の後なほ郷土偉人の面影が(しの)ばるるであらう。(五莊屋記事参照)



袋野堰

袋野堰! うねりを縫ふて巖層を掘り(うがつ)ち、七千尺に餘る(ずい)(どう)を作った「鬼工」に感ずるもの、()(とく)(みぞ)の記を綴った米藩の士、中村觀濤のみならんやである。袋野堰の出来たのは長野、大石両堰の開かれた八年の後、即ち寛文十二年のことで山春村字三春の袋野に、吉井の大莊屋田村重榮が起こした獨立事業である、大石長野の工事とは、大に趣を異にしたる空前の大開鑿で、其事蹟はさきに天聴に達し、(かしこ)くも正五位を追贈されたのである。「五莊屋の手に依つて成就せる大石、長野兩水道の水が見事に流れて居る如く、乃公(だいこう)の計画した袋野の(きり)(ぬき)も成就しない(はず)はない、是非竣工(しゅんこう)さして見せる」と決心し、他人に(はか)れば痴人(ちじん)の企てと一笑に付すかも知れぬので、長子の重仍と謀り、連署して開鑿を願った。願書の中には
 第一、成功の暁に大野原の内に新田十三町歩、兩原口、兩大石に於いて七十餘町歩の畠田を得る見込みあること。
 第二、其費用として藩府より銀三十三貫目餘借用すること。
 第三、大野原新田は翌十三年より十ヶ年間年貢の赦免を乞ふこと、()つ兩原口、兩大石四ヶ村七十餘町歩の地は、同年秋より七ヶ年以上の赦免ありて、唯其餘米のみを収納せられなば、借用金に利子を附し四十八貫の全部を返納すべき事。
 第四、開鑿(かいさく)の上は諸方より百姓を移し大野原を開拓し、小村落出来上る見込みなれば、其村を重榮の配下とし、(ぜん)()に同地を開拓せしむる事。
 第五、借用銀返済後は三ヶ年間兩大石、兩原口の四ヶ村より一段に付一俵宛又左衛門に差し出す様関係各村の莊屋及び百姓と相談の上取極むる事。
の要項が陳述されて居た、實に事理明白な申條(もうしじょう)である。
 實地調査のため丹羽頼母重次は出張した、頼母は土木通として久留米藩に名を知られた人である。袋野に(おもむ)き地勢を察して田代氏の明識に感じ、成功の暁には一國に(かん)する鴻業(こうぎょう)であることを確認し、歸って許可を藩府に仰いだ、府も(また)其志を(よみ)し許可する運びになった。断崖と丘陵とになる袋野の地……(かわうそ)()鬮取塲(きゅうしゅば)まで、長さ十七八町餘の(ずい)(どう)工事は堅い地盤の巖層を穿(うが)つので、到底百姓や大工の力では成し遂ぐべくもあらず、重榮は中國筋の金山坑夫四五十名を雇入れ、鍛冶屋を呼んで多くの鶴嘴(つるはし)を作らしめた、起工の準備はこれである、鶴嘴!鶴嘴!鶴嘴!その鶴嘴が袋野工事の生命であり、唯一の器具であった。蠑螺(さざえ)の殻に種油を盛り、燈心に火を()け、わづかに咫尺(しせき)(べん)じつつ開鑿に従ったのである機械も炸藥も石油も電燈もない二百四十年以前のことで、其苦心惨憺は想像に餘りあり、之を断行した田代大莊屋の膽度(たんど)には動かされずには居られないのである。隧道の廣さは牛馬の通行する程あって、將棊(しょうぎ)の駒形に切り込み、工夫數名を順番に交代さしめ、毎日僅か二三尺づつを掘り進み、四十間乃至五十間にばった頃、穴を開いて外部との連絡を執り、明かり取りと(しょう)する此穴から石塊(いしくれ)破碎(はさい)したものを搬出したそうである、獺の瀨から數百件は、河岸に沿ふて貫鑿(かんさく)して居るが、或地點(またはばしょ)に到り本川の水流(にわか)に迂回して居るので、河岸に沿ふて鑿つとすれば、水路(すこぶ)る延長する事となるから、(とう)に丘陵の地底十餘丈の下を横断することに定めた、此數百間の間は外部との連絡が保たれず、最も難工事の塲所で、(せん)(しん)(ばん)()の末(ようや)くにして開通し、更に河岸に沿ひ(がん)(こつ)を貫くこと數百間にして、鬮取塲(きゅうしゅば)の東方百餘間の所に至り、始めて明溝となっている。工事に要せし日數を記録に徴するに九ヶ月あまりで、隧道の長さは十八町三十間、成工したのが翌年の寛文十三年(延宝元年)三月十日であつた。先づ水路が出来上がったので、獺の瀨の水門を開き河水を導いたが、豫定の効果を得なかった、重榮大に煩悶(はんもん)の末、(ここ)に筑後川を横断して一大石堰を築成せんとの大決心を抱いた、この時既に藩府より借り入れた三十三貫三百目の銀子は殆ど費消(ついや)(つく)して居たが、家産を覆しても遣り遂げるのが男子の本文だと覚悟し、意気天に冲して、更に其工事にりかかった、激流奔湍(ほんたん)さながら瀑布(ばくふ)のやうな獺の瀨、水流急にして工夫も心(わなな)色を失ひ、容易に水に入らなかつたが、重榮は一巨竿を水中に立てしめ、自らこれを傅ふて水底に入り、多數の(せい)(かん)を据えつけ、神楽山といふ工事用の船二隻を作り、六尺立方餘の大石數千個を豊後の高野村、筑前の把木山より積み来りて築積したので、(ここ)水流長さ六十四間、幅五十九間の大石堰を築成し、河水は滔々(とうとう)として水門に流入した。(しか)るに延宝元年及二年は事故と水害とのため工事竣工(しゅんこう)に至らず、四年に及び完成したが、原口、大石、大野原の地に七十七町歩餘の美田を得るに至ったのは、延宝七年で重仍(しげより)が父の志を継いで、之を間然(かんぜん)する所なきに至らしめたのである。
 惠の水の餘瀝は原口、大野原、大石の各所を灌漑し、本流は二里に及び、大石水道に注いで居るのは其餘水である。爾來(じらい)荒蕪(こうぶ)の地は年を追ふて(ひら)かれ、現今の灌漑段別實に百七十町歩と(となえ)せられて居る。


田代()三左衛門重榮(じゅうよし)

 父重信大隱(たいいん)の後を継いで、大保正となり、二十八ヶ村を支配していた。剛毅(ごうき)な性質で器量に秀で、(こと)に厚生利用の志が深かった、所管村民が水利に困憊(こんぱい)するを以て(ぞう)(すい)の必要を感じ、又大石、原口、兩村の畑原野を開墾し、水田を設けようと決心して、地理を按じて見たが、水路の衝には巨岩の横はるあり、之を貫通するに人力及び難きものあるので、一旦此企てを断念した。(しかし)して寛文八年、長子重仍に家督を譲って身は剃髪して了淸居士と號した、(すで)に隠居の身となり、世の塵を(はら)つたが、水利の事は夢寐(むび)にも忘れず、遂に重仍と協議し、拝借金の事外四條件を具し、連署して、工事の許可を藩府に(うけお)ふたのである。府官は實地に目を()れて、其設計の大膽(だいたん)なるに驚いたが、而かも企畫の合理的で、熱誠(ねつせい)の如きものあるに感激して遂に許可することになつた。田代父子は直ちに金山坑夫を雇入れ、堅巖を(うが)つこと實に十八町三十間、九ヶ月を以て一旦貫通せしを以て、(すなわ)ち水門を開き水を通ぜんとしたが、高低の度合はず、用水意の如く通ぜぬので、更に筑後川を横断して大堰を築き最初の目的を達せんとせしも、不幸凶作の年に方つて、一時工事を中止するの止むなきに至つた。此時既に藩府よりの借入金を費消し()くし、なほ自己の財産大部分を擲つていたのである。延宝七年に至り、重仍は父の志を継ぎ、水路の全部を開鑿して意想外の成功を見、數年ならずして七十七町歩餘の水田を収め、其後漸を追ふて餘水を利用し、開拓を告げたが、中國筋から雇来つた工夫歸るに(のぞ)み、重榮の偉功を歎美(たんび)、記念ののため路傍に壁立せる巨巖を穿(うが)ち内部正面に了淸居士たる重榮法體の像を彫刻した、其像一見地蔵尊二似て居るから、俗に地蔵様と(しょう)している、重榮没後村民神と崇め、華表を建設して「斫岩爲渠。嘗思其功。注水潤田。今仰其德」(岩を切って溝渠の造成をなしとげる その功恩を忘れることはできない 何故ならば溝渠から流れ来た水は田畑を潤してくれているからだ 今、改めて田代大庄屋の徳を敬うものである)なる文字を刻し、豐碑を立てて毎年三月十四日重榮の命日を卜して祭祀を行ひ、社前に神酒を披露し、行人に饗して、恩を報ずること、二百年一日の如くその德を讃へてゐる。明治十八年六月、時の福岡縣令代理渡邊淸より其功を追賞され、四十四年十一月、肥筑の野に於いて特別大演習を擧行さられ 明治天皇親しく御統監、久留米に御駐輦(ちゅうれん)あらせらるるや、重榮の偉績を聞召(きこしめ)されて、特に贈正五位に叙せられたのである。田代家の(せい)(けい)を按ずるに、其祖先は防州の大内氏で、大内氏の孫筑前早良郡姪の濱に來り寓したのが、重信の代に柳川に移り住み、後に吉井大莊屋職に擧げられ舊生葉郡二十八ヶ村の支配となつたのである。(袋野堰参照)


五莊屋

 築後の五莊屋と(しょう)せらるるのは何れも本村(江南村)の莊屋であつた、元夏梅村の莊屋栗林次兵衛、元淸宗莊屋本松平右衛門、元高田村莊屋山下助左衛門、元今竹村莊屋重富平左衛門、元管村莊屋猪山作之亟の五人をいふのである、死を賭して大水路を開鑿(かいさく)したる其偉大なる功績は實に千載不朽の美名を(のこ)してゐる。今を(へだたる)る二百五十餘年の昔寛文三年は、我邦一般に大旱魃であつて、大河に沿ふた平野でありながら、水に乏しい我が地方の民は、飢餓に(せま)つて東西に離散しようとした、之を見たる五莊屋は、豫て計畫せる大石、長野の堰渠を開鑿して、百年の大計を樹てん事を企て、死を期して城府に出で、諸老の門を叩いて其状を具申した。「若し水來らずんば極刑に就かん」語何ぞ秋霜、志如何に烈日なるか、後に他の莊屋之に加はり、田代、石井の兩大保正等の斡旋あり、又郡奉行高村權内は潔白雪の如き五莊屋の心事と、火の如き至誠に、同情を(そそ)いで此企畫を援け、遂に藩府を動かし、寛文四年正月兩堰の工事に着手するを得たのである、長野の工事塲には五基の磔具を建てて並べたが、三月中旬には設計通りに工を終へ、流水滾々(こんこん)として注ぐに至った、歡びの聲は潮の如うに湧き、反響は川べりを(つたえ)ふて漂ひ、磔具を焼ける餘煙は濛々(もうもう)として義魂の生彩を畫いたのであつた。工事竣成とともに磽确(こうかく)な荒野に多數の新田が開拓され、(かつ)て此工事に反對(はんたい)した包末、能樂、小江、橘田、溝口の五箇村も、寛文五年水道の擴張工事に際し、戸樋溝開通のことを歎願(たんがん)するに至つたのであるが、(きゅう)竹野九箇村の莊屋はこれを遮りて、「五箇村は故障を申し立て、此工事を沮害(そがい)せんとしたる村なれば、私共の村々の畑地が(ことごと)く水田となるまでは差控え居る様申されたし」と郡奉行に申請した、五箇村も等しく藩府の赤子なれば、禍福(かふく)をともにするは當然にして、私情を以て公益を害するは宜しからずとて其許可を仰いだ、この高潔なる心事は実にかかる破天荒の大事を成し遂ぐる唯一の信念であつたのである。寛文五年四月、時の郡代有馬内記は郡奉行高村權内と共に、溝筋検分として出張し、高田村莊屋の宅に休憩し、莊屋一同を召集して其偉功を賞讃し、藩命により五人庄屋一人につき引高二百石を取らすべき旨を申し渡したが、五莊屋は自分等の素願は水を得るにあれば、今意の如く水を得た以上他に望む處なしと、堅く辭退(じたい)するので、強いて引高一年分二百石をとらしめたのである。かかる大事を敢行したる五莊屋の年齢は、記録の徴すべきものはないが、墓碑につき(しらべ)して見ると、重富平左衛門は延寳九年二月二十八日、山下助左衛門は、元禄四年三月十八日、本松平右衛門は元禄十年二月八日、栗林次兵衛は元禄十三年六月十二日、猪山作之亟は元禄十四年二月十三日に歿(ぼっ)し、工事竣成の寛文四年を距る平左衛門は、十七年、助左衛門は二十二年、平右衛門は三十三年、次兵衛は三十六年作之亟は三十七年の後であつて、之を平均すれば約三十年、()りに五莊屋の一生を平均六十年前後とすれば、工事竣成當時は(すべて)十前後の年壯氣鋭の時であつたことが推想せらるると共に、冐險(ぼうけん)なる壯圖(そうと)雄大なる偉業を試み、不撓不屈であつた五莊屋の英氣は現代浮華纎弱(ふかせんじゃく)な人士をして感奮せしむるに足るのである。天明五年有馬家代九世大乘公頼貴、堰渠開鑿之事蹟を聞き、特に五莊屋の子孫を招き、藩士の列に加えて能樂の陪覽(ばいらん)をゆるされ、明治十八年六月、福岡縣令代理渡邊淸は五莊屋に對し追賞を行なひ、明治四十四年十一月 明治天皇兵を肥筑の野に閲みし給ひ、久留米に御駐輦(ちゅうれん)あらせらるるや、偉積(いせき)天聽(てんちょう)に達し、特に、贈従五位に叙せられ玉ふたのである。五莊屋の靈は、水淸き長野水門のほとり、水神社に祀られ、威德(とこし)へに輝いて(おん)(たく)千歳に朽ちぬのである。(大石長野渠堰参照)