2014年5月3日土曜日

「沈黙」(遠藤周作著)を読んで思うこと

  書棚の奥から綿ほこりの積み重なった小説を見つけました。遠藤周作が書いた「沈黙」です。この本は、学生時代に買った本ですが、みじめな思い出が甦って来ました。というのも、この「沈黙」は、漢字や文章が難しく、私の国語力では歯が立たずに、一度も読み終えることが出来なかった本だからです。しかし、綿ほこりを取り除きながら本を見ていたら、ふと今なら読めるかもしれないと思いました。パソコンのIMEパッドで漢字の読み方を調べ、検索で意味を調べられるのではないかと思いついたからです。
 早速読むことにしたのですが、読んでいるうちに何度も睡魔に襲われてしまいました。「眠たい!私には純文学など向かない?…」と自問自答しながらも、やっとの思いで、何十年振りかに、初めて読み終わることができました。奥が深すぎて、一度読んだだけでは理解不十分だと思いました。主人公の司祭ロドリゴが、教会に宛てた手紙形式で書かれ、ユダやユダヤの人々にも似た登場人物が描かれ、司祭ロドリゴをキリストに見立てれば、聖書とも思える内容でした。この本は、何度となく読むべき本なのかもしれません。前置きはこの位にして、あらすじを書いておきます。

 司祭ロドリゴは、尊敬する神学校の恩師フェレイラが、日本で転んで信者達を落し入れているという悪い噂を聞いて、信じることが出来ませんでした。ロドリゴは、反対を押し切って、フェレイラ探索と宣教の為に日本へと旅立ちます。
 ロドリゴは、日本に密入国をする為に、澳門(マカオ)で準備をするのですが、そこで一見オドオドした表情だが狡猾そうなキチジロウという日本人と出会い、日本までの案内を頼みます。
日本に着くとキチジロウは、長崎奉行所にロドリゴを売り渡します。著者はキチジロウをユダのように描いています。ロドリゴは、逃亡の果てに捕らえられるのですが、転ぶことを拒否して牢屋で祈り続けます。
表題の「沈黙」とは、神の沈黙のことだったのです。ロドリゴの目の前で、多くの信者達が拷問に耐えきれずに殉教して行きました。ロドリゴは、ただ祈る事しか出来ませんでした。次第に追い詰められたロドリゴは、こんなに祈り続けているのに、神は何故沈黙を続けるのかと訴えます。しかし、神の沈黙は続きます。
奉行の井上筑後守は、信者達には拷問を掛けるのですが、ロドリゴには肉体的苦痛を与えませんでした。しかし、「あなたが転ばなければ、信者達は苦しみながら死んで行くぞ」と言います。精神的に追い詰める考えでした。
 ロドリゴにしてみれば、拷問に耐えて華々しく殉教して行く自分の姿を夢見ていたのですが、何の肉体的苦痛も与えられない事の方が、かえって精神的に苦痛を感じていました。この時代に日本にいなければ、転ぶ事など考えなくて良かった…キチジロウでさえ転ばなくて済んだろう…澳門や欧州の人たちには、この苦しみが分かるはずがないと…
 ロドリゴが悩み苦しんでいるさなか、キチジロウが何度も遣って来て、告悔を聞いてくれと頼みます。俺は強くはない。弱い人間たい…踏み絵は踏んだけどキリシタンだ…と言います…
 ロドリゴの精神的苦痛が極限に達した時、フェレイラがやって来て、転ぶように諭します。ロドリゴはフェレイラに支えられながら牢を出ると踏み絵の前に立ちます。ロドリゴが苦しんでいると役人が、形だけで好いから踏めと言います。その時、ロドリゴの耳に、銅板に描かれた神の声が聞こえて来ます。「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。」と…神はついに沈黙を破りました。
 こうしてロドリゴが踏み絵に足をかけた時、朝が来て、鶏が遠くで鳴いていました。
 踏み絵を踏んだ後日、ロドリゴは次のように自問自答しています。
 「私は転んだ。しかし主よ。私が棄教したのではないことを、あなただけが御存知です。なぜ転んだと聖職者たちは自分を訊問するのだろう。穴吊りが恐ろしかったからか。そうです。あの穴吊りを受けている百姓たちの呻き声を聞くに耐えなかったからか。そうです。そしてフェレイラの誘惑したように、自分が転べば、あの可哀想な百姓たちが助かると考えたからか。そうです。でもひょっとすると、その愛の行為を口実にして自分の弱さを正当化したのかもしれませぬ。
 それらすべてを私は認めます。もう自分のすべての弱さをかくしはせぬ。あのキチジローと私とにどれだけの違いがあるというのでしょう。だがそれよりも私は聖職者たちが教会で教えている神と私の主は別なものだと知っている。」と…

 この本を読んで思う事は、日本人的考え方かも知れませんが、ロドリゴは恥辱に耐えて、罪を一身に背負って、転んだのではないかという事でした。自分が転べば信者たちは助かる…自分さえ恥辱に耐えれば、信者は生き延びられる…神様だけが分かって下されば好いと…樅の木は残った(伊達騒動)の原田甲斐にも何処かにているような気がします。ただ、この日本人的考え方が、西洋の人々に何処まで理解されるかは分かりません。
 それから作者は、キチジロウをユダのように描いていましたが、実はロドリゴも含めて、ペテロではなかったのかと感じました。イエスの有名な言葉「まことに私は言う。今晩、鶏が鳴く前に、あなたは三度私をいなむだろう」どおりに、ペテロがいなんだ事と、ロドリゴやキチジロウが転ぶことは、変わりがないような気がしたからです。17世紀前半の日本の信者の置かれた立場は、それほど差し迫ったものがあったのではないでしょうか。

 ただ言える事は、これ以後、信者は地下にもぐり、隠れキリシタンと成ったということです。二百数十年後の明治維新に禁教令が解かれた時に、キリシタンが地上に出現したということです。世界に類例のないことだったと思います。ある者は、カトリック・プロテスタントに帰依し、ある者は、そのまま隠れキリシタンの秘義を受け継いだのですが、神の子に変わりはなかったはずです。これは奇跡としか言いようがないことだと思います。転んで行った幾人もの宣教師たちが、成し得た奇跡だったのかもしれません。